
「全国展開するぞ!」といっても、どうやったら展開できるのか?さっぱり分からなかった。
賞味期限が2.5日と短いため、遠方のお店、たとえ百貨店でも店頭販売では難しいという事は分かった。やはりお客様に直接お届けできる通信販売が一番良いだろうと考え、ホームページを立ち上げた。ホームページを立ち上げただけでは、注文は来なかった。3年間で10件程である。
「まず地元のお客様に愛される様に頑張ろう!」そう思うしかなかった。通信販売の手がかりのないまま、作り続けなければならない訳で、そうするしかなかった。
毎月の宮川朝市、春の鶴山公園桜祭り、秋の城東むかし祭り等、様々なイベントに出た。売れる日は50本、100本と販売することが出来た。しかしイベント以外は毎日5本を作り、2本売れたり、1本も売れなかったり。賞味期限ギリギリの商品は従業員に配った。
2003年3月28日、その年は気温が高く桜の花も25日には咲き、さば寿司の販売も開花とともに売れ続けた。花見のお客様がお店に多数お越しになり、さば寿司作りに忙しい毎日を送っていた、そんな時に次女が生まれた。花が咲いている時に生まれた子供なので、「咲」という字を名前に入れた。
2004年3月、産経新聞の記者から電話があった。
「桜の商品を取材したいのですが?」
次の日記者が来店し、さば寿司「うまかろう」の試食、写真撮影、取材と3時間近くかかったが、この商品に対する想い、開発経緯など詳しく説明した。自分としては、新聞に載る大きなチャンスだと感じた。
4月3日にその記事が掲載された、掲載範囲が広く滋賀県から広島県の広範囲で配られる産経新聞に掲載された。朝から電話が鳴りっぱなしで、問合せ、注文が殺到した。新聞だけの注文で500本近く販売した。これは凄い反響だった。
丁度、桜も見ごろで、その記事を見て、遠くは滋賀県から車でお越しになる方たちもあった。記事を書いた記者は結構有名な方で、文章にも力があったんだと実感した。
4月の花見も終盤戦の16日、JRから電話があった。「JR岡山駅の構内でさば寿司を売ってみないですか?」という提案だった。新聞掲載から、毎日50本以上の販売を続けており、自分も意気揚々となっていた。「よし、岡山駅で100本売ってやるぞ!」そんな気になった。
売る場所は岡山駅の在来線から新幹線に接続するコンコースの中で、金曜日となると1日に2万人の人が通るところである。事前に下見をして、JRの人達と打ち合わせをした。
「今までに、同じ場所で他の商品で一番売れたのはどれ位の金額でしょうか?」そんな質問をすると「だいたい7万円位ですかねー」と非常に少ない金額を言われたので、「では、15万円売ってみせましょう!」と大口を叩いた。
6月18日の金曜日、いよいよその日がやってきた。これがうまくいけば、キオスクの常時商品としても可能性が出てくる。「5時間位で売ってやるぞ」と意気込んだ。9時から販売を開始し、最初の20本はよく売れた。
「よし、このペースで午前中に売って帰ろう」と試食を片手に、在来線から新幹線に乗り継ぐ方に「新聞に乗った桜の香りのするさば寿司はいかがでしょうかー。お土産にどうぞ!」と大声を出し、試食をしてもらおうとしたが、乗り継ぎの人は足早に目の前を通り過ぎて行く。試食さえも手を出さない。在来線が岡山駅に到着する度に200人近くの人が目の前を通り過ぎるが、全く売れない。おかしい。
4時頃まで7時間、のどをからせながら粘ったが、結果売れたのは31本。79本も残ってしまった。前日、試食も合わせて130本の製造のために、スタッフ総手で休憩なしで作ってもらい、皆に「全部売って帰りますから!」と大手を振って出て行った自分が情けなく感じた。皆に申し訳ない。
79本も持って帰っても、どうしようもないため、岡山駅構内売店の人達に無料で配った。駅職員にも配り、全てを配り終えたのは7時の事であった。帰りの運転中、自分の力の無さを痛感した。絶対売れると信じて行ったのに、この惨憺たる結果は全て自分の責任である。
9時半にお店に帰り、スタッフの皆に「申し訳ない。110本持って行って、31本しか売れませんでした。皆さんの頑張りを無駄にしてしまった。申し訳ない。」と言ったところ誰もが「お疲れ様でした。大変でしたね、また今度頑張りましょう!」と自分を責めるどころか、逆に励まされた。これには涙が出た。悔し涙だった。
後で聞いてみると、飛行機との競争の為、岡山駅の在来線から新幹線への乗り継ぎ時間は3~5>分位しかなく、皆足早にホームまで急ぐため、コンコースでは商品が売れないということであった。
自分自身の情報収集能力の無さ、売れない場合の対処法を取らなかったこと、リスクマネージメント能力の無さに、自分のおごりが入り、このような大失敗をしてしまったことは事実である。